西国三十三観音霊場巡礼の始まり
 養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが閻魔大王に、巡礼によって人々を救うように託宣を受け、起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。

 そしてこの宝印に従って霊場を定め。上人はこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られず普及しなかった、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして三十三所巡礼は人々から忘れ去られてしまった。

 約270年後、花山院(安和元年〈968年〉− 寛弘5年〈1008年〉)(第65代花山天皇)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授け、中山寺で宝印を探し出し、三十三所観音霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという。